大津市仰木の里の産土神小椋神社は、天安二年(西暦八五八年)人皇第五十五代文徳天皇の皇子惟喬親王の創祀に依る古社である、大宮明神と称す(祭神伊弉那美神)続いて翌貞観元年源融公(嵯峨源氏)が宮川の上流に祀れる闇淤加美神を遷し祀る、是即ち小椋神社の創始なり。
抑も滝壷に祀れる闇淤加美神とは之を逆る白鳳の昔天智天皇(天智六年)大和の国より近江大津の里に遷都のみぎり同国葛城山丹生川上神社の分神を遷し祀れるなり、之に依りて小椋の荘巨木の里は愈々開け農業も盛となれり。其の後延喜二年(西暦九〇二年)醍醐帝の御宇小椋明神の神告に依りて若宮山に鎮座坐す(祭神稚日女神)を同境内に遷し祀れり、若宮明神と称し三社鎮まり給ひてより村人の崇敬愈々高まる、此の時古歌生まる(詠人不詳)
    大比叡や葉広の山の山元に
        仰木の岬舟や出ずらん
 続いて延喜八年(西暦九〇八年)延喜式内社制定せらる其の時全国三千一百三十四社内に列座す(滋賀郡ハ社の内)。
 続いて後鳥羽天皇の建久元年(西暦一一九〇年)本社の奥のやゝ高き所に日吉神社の摂社十禅師明神と石居明神とを祀り前者を新宮神社(祭神少彦名神)後者を今宮神社(祭神大穴持神)と称し茲に致て五社明神列座し小椋神社と称し崇へ奉る。
 之より先円融天皇の御宇貞元二年(西暦九九七年)鎮守府将軍源満仲公功就りて老後を佛門に入らんとして六十六才の時摂津多田荘より仰木に来り時の名僧比叡山横川なる恵心僧都に帰依し此の地に舘を構へて約十年間在住せられ其の間当神社を崇敬せられ又元の多田へ帰り八十八才にて没す。
 但し当神社は以降田所神社と称し明治大正の頃まで続き明治九年政府が社格を制定された時田所神社なりし故、村社の社格となった、そこで昭和二十年時の宮司総代其の他の有志に依り旧名小椋神社に復起し申請して県社に昇格したのであるが終戦後社格廃止となり其の後は式内社のみを生かして氏子に崇敬せらる。
 之より先慶安二年(西暦一六四九年)後水尾天皇第五皇女賀子内親王の領地となり皇女当神社を篤く御信仰せらる、一の鳥居又石橋等を御寄進せらる、後、内親王は公爵二條家に嫁がれ今尚二條家の尊信篤く続いている。
 因に当社の例祭は毎年五月三日と定められ、例祭は午前中に行われ午後は古式祭として五基の神輿が御旅せられ、駈馬や馬止、酒盛など満仲公に別れを惜しむ行事があり、又旧暦閏年五月三日にも特殊閏祭典が斎行される。
 以上小椋神社は氏子七百五十戸崇敬者三千人で境内三千坪四百年の大杉と他の大木で神々しい神域で参詣人が絶えない。

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